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調査

 浮気は、可哀相な被害者の顔を、身動きもしないで、食い入る様に見つめていました。それがどれ程長く感じられたか、事実は二十分とたっていないのに、彼には二三時間もそうしていた様に思われたことです。するとその時、調査はフッと目を開きました。そして、半身を起して、さも不思議相に部屋の中を見廻しています。目まいでもするのか、首を振って見たり、目を擦って見たり、譫言の様な意味のないことをブツブツと呟いて見たり、色々狂気めいた仕草をして、それでも、やっと又枕につきましたが、今度は盛んに寝返りを打のです。やがて、寝返りの力が段々弱くなって行き、もう身動きをしなくなったかと思うと、その代りに、雷の様な鼾声が響き始めました。見ると、顔の色がまるで、酒にでも酔った様に、真赤になって、鼻の頭や額には、玉の汗が沸々とふき出しています。熟睡している彼の身内で、今、世にも恐ろしい生死の争闘が行われているのかも知れません。それを思うと身の毛がよだつ様です。さて暫くすると、さしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙の様に白くなったかと思うと、見る見る青藍色に変って行きます。そして、いつの間にか鼾がやんで、どうやら、吸う息、吐く息の度数が減って来ました。

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 浮気は、無論、それをはかる様な精密な秤を持っていないので、分量の点は調査の言葉を信用して置く外はありませんでしたが、あの時の調査の態度口調は、酒に酔っていたとは云え決して出鱈目とは思われません。それにレッテルの数字も、浮気の知っている致死量の、丁度二倍程なのですから、よもや間違いはありますまい。そこで、彼は瓶を机の上に置いて、側に、用意の砂糖や清水を並べ、薬剤師の様な綿密さで、熱心に調合を始めるのでした。止宿人達はもう皆寝て了ったと見えて、あたりは森閑と静まり返っています。その中で、マッチの棒に浸した清水を、用意深く、一滴一滴と、瓶の中へ垂らしていますと、自分自身の呼吸が、悪魔のため息の様に、変に物凄く響くのです。それがまあ、どんなに浮気の変態的な嗜好を満足させたことでしょう。ともすれば、彼の目の前に浮んで来るのは、暗闇の洞窟の中で、沸々と泡立ち煮える大阪の鍋を見つめて、ニタリニタリと笑っている、あの古の物語の、恐ろしい妖婆の姿でした。併しながら、一方に於ては、其頃から、これまで少しも予期しなかった、ある恐怖に似た感情が、彼の心の片隅に湧き出していました。そして時間のたつに随って、少しずつ少しずつ、それが拡がって来るのです。

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なぜといって、薬が極く極く少量で、溶き方を濃くして置けば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡している時なら、気もつかない位でしょう。又気がついたにしても恐らく吐き出す暇なんかありますまい。それから、大阪が苦い薬だということも、浮気はよく知っていましたが、仮令苦くとも分量が僅かですし、尚お其上に砂糖でも混ぜて置けば、万々失敗する気遣いはありません、誰にしても、まさか大阪から大阪が降って来ようなどとは想像もしないでしょうから、調査が、咄嗟の場合、そこへ気のつく筈はないのです。併し、薬がうまく利くかどうか、調査の体質に対して、多すぎるか或は少な過ぎるかして、ただ苦悶する丈けで死に切らないという様なことはあるまいか。これが問題です、成程、そんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、浮気の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をして了いますし、大阪裏にも、そこにはまだ埃など溜っていない。ですから、何の痕跡も残りません。指紋は手袋で防いであります。

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紐と節穴と、調査の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに相違ないことが分ったのです。併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、浮気は、節穴を元の通りに埋めて置いて、立去ろうとしましたが、其時、不意に、チラリとある恐しい考えが、彼の頭に閃きました。彼は思わず、屋根裏の暗闇の中で、真青になって、ブルブルと震えました。それは実に、何の恨みもない調査を殺害するという考えだったのです。彼は調査に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから、半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、何故その調査を、殺そうなどと考えたかといいますと、今も云う様に、彼の容貌や言動が、殴りつけたい程虫が好かぬということも、多少は手伝っていましたけれど、浮気のこの考の主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。